63 牧野篤好と茶業の縁

 初代熊毛郡長(現支庁長)の牧野篤好(1846〜1923)史料が6月、鉄砲館の「寄贈品展」で公開されました。
 種子島に牧野が来島したのは明治16(1883)年のことです。甑島から計約430世帯、約1400人が移住した明治19、20年には、世話係主任として奔走しました。明治18年9月には、米国の商船カシミア号が難破し、立山、安城、伊関の住民が乗組員を保護し、米国から大金が贈られた出来事もありました。
 牧野は明治30年、従来の熊毛(種子島)、馭謨(屋久島、口永良部島)を合わせた熊毛郡の初代郡長となりました。同35年に退官し、静岡県棚草村(現菊川市)に帰郷します。人々に茶業の適地として種子島への移住を勧めたことから、まず同42年、松下家、栗田家の3家族が番屋峯に入植。移住者がさらに増えて続々と茶園を造成し、種子島が鹿児島県下における茶業の先進地となったのです。同様に国上に移住した筧家は林業に励み、ヘゴ自生群落の保護に尽力し、近年、貴重な観光資源として注目されるまでになりました。
 今回の史料寄贈のきっかけは、市史編さんの調査です。執筆委員や市職員とともに私は4月、菊川市の牧野家や墓地、菩提寺を訪ね、牧野の手記「覊塵集」などを曽孫の栄一さんから譲り受けました。
 平成22(2010)年、移住百年記念式典が催された番屋峯を菊川市長が訪れ、隣の掛川市長も祝辞を寄せました。今回、その返礼で両首長も訪ねました。
 JR菊川駅前に茶の実のモニュメント(高さ1・8メートル、幅2・4メートル)があり、その9分の1大のレプリカが菊川市から贈られて番屋峯公民館前に鎮座しています。「日本一の走り新茶」のルーツを語る象徴です。

牧野篤好の肖像画と長谷川寛彦菊川市長(右)=菊川市役所で