62 不撓不屈の薩摩義士

 鹿児島県と岐阜県の姉妹県盟約50周年記念式典に参加するため4月、同県関ヶ原町を訪ねました。薩摩藩による木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の河川改修を縁にした友好親善です。式典には知事ほか鹿児島、霧島、日置、西之表各市の市長らも出席しました。
 ちなみに、派遣藩士千人の総奉行を務めた薩摩藩の家老平田靱負(1704〜55)には種子島家の18代島主久時の娘が嫁いでいました。また、戦国時代にさかのぼれば、鉄砲鍛冶八板金兵衛は岐阜県関市出身です。
 江戸時代中期の宝暦3(1753)年12月、幕府から御手伝普請が下命されます。藩費数十万両を要する難題に、藩内では拒否の上、島津77万石と徳川800万石との交戦論も出る中、苦渋の受諾を決定。工費捻出に伴う国元での重税、節倹、窮乏は戦時さながらの苦難でした。
 種子島家譜によれば、藩主重年が「尾・濃・勢三国の大河」改修の台命を受けたため、種子島家も「今年より高三百石の租税を献ず」と記しています。
 1年余に及ぶ難工事の重労働や疫病の中で、藩士の犠牲者は80人以上といわれます。完工から約270年。薩摩義士に感謝する供養行事が今も続きます。
 式典では、地元小学生が狂言「失せうろこ」を披露しました。木曽三川にすむ龍の子が、暴れ散らかしたうろこを探す旅で松の精やアユなどの魚たちと出会う話です。殉職者を悼む藩士らが植樹した千本松原に近い治水神社(海津市)で奉納されているそうで、歴史と自然が織りなす伝統文化の一端に触れました。
 鹿児島市の城山の麓、平田靱負の屋敷跡は公園となり、靱負の銅像が不撓不屈の面立ちで立っています。

子ども狂言「失せうろこ」の熱演