59 危機一髪の偉功伝

 西之表市史編さん事業5年間の半ばである2月、種子島火縄銃保存会草創期メンバーの杉喜志盛さんが市に火縄銃4丁を寄贈しました。「種子島住定国」の銘が刻まれているものなど、ずっしり重い銃を手にすると、五百年の歴史を思わずにはおれません。
 天文12(1543)年、ポルトガル人を乗せた明国船が門倉岬付近に漂来し、前之浜で儒者五峰と地元の西村織部丞時貫が筆談をしたのは8月25 日です。種子島家譜は、この年の3月に起きた大事件(祢寝戦争)について、13代島主恵時(1503〜67)と14代時尭(1528〜79)の譜に詳しく記しています。
 大隅半島に勢力をもつ祢寝重長が兵二百余人の船団で島に攻め入ったのです。急報で恵時をいち早く屋久島に逃がした後、赤尾木城に迎え撃った時尭は、討ち死にが相次ぐ家臣団の奮戦もむなしく敗れ、絶体絶命の危機に陥ります。ちなみに、祢寝家は恵時の父12代忠時(1468〜1536)の母の実家でした。
 家譜によれば、時尭(当時は直時)への後継の前、恵時の奢しゃし侈により家中の不満が高まっていました。その内通で祢寝軍が動いたとされ、時尭助命の一方、屋久島が祢寝家に割譲されます。夏の鉄砲伝来をはさんで翌年正月、種子島勢は屋久島の祢寝勢を攻め領地を取り戻します。
 そして、その春、南蛮船が熊野浦に漂来し、船中にいた鉄砲職人に八板金兵衛が学び製法完成に至りました。かくて16代久時(1568〜1612)は「鉄砲記」を編み、父時尭の鉄砲国産化の偉業を今に伝えているのです。
 祢寝戦争で火縄銃が用いられたかどうか、詳細はわかりませんが、危機一髪をしのいだ名君の偉功伝は、窮地にも活路はあると勇気づけています。

寄贈された火縄銃(手前の銃身に「種子島住定国」銘)