55 トッピー漁の当番表

 暗がりに、ぼんやりと文字が浮かんでいます。トーチカの鉄の扉から、ひんやりした屋内に入り、コンクリートの内壁に記された数字の表に目が吸い寄せられました。
 青色のチョークで「矢八」「金吾」「仁之助」「塰川」「坂下」と5人の名前。その下に野球のスコアボードのようにマス目に1から5までの数字が並んでいます。この表は、トッピー(トビウオ)漁の見張り役(当番長)の順番の記録だと、馬毛島の元居住者の話でわかりました。
 馬毛島のトーチカは、1941(昭和16)年、日本海軍が爆弾投下訓練のため、円形の標的を島南部の平原に設置するとともに、最高地の岳之腰(71メートル)に建設しました。地下は避難壕になっているそうです。
 戦後、国による農地開拓政策で馬毛島に農民の移住が進みました。それ以前から馬毛島でトビウオ漁をしてきた種子島の五つの漁業集落(洲之崎、池田、塰泊、能野、住吉)の小組合は、地先権を守るために開拓団に参加しました。かつて、中種子の浜津脇住民も漁業の拠点を構えたことがあり、馬毛島はトビウオをはじめ、ブリ、カンパチ、イセエビ、テングサなど豊富な海の幸を種子屋久の島民にもたらし続けています。
 トーチカに残る当番表は、五カ浦の代表がトビウオ漁での見張り役の順番を決めたものでした。記された各浦の当番長の顔ぶれから、昭和三〇年代後半のものだろうと古老たちは話しています。
 証言によると、当番長たちは、1.夜明け前、トビウオの群れを見つけた魚探船から位置を電灯信号で受ける2.魚群の位置を電灯で各船団に知らせる3.夜明けと同時に各船団に網入れの合図をする、という手順です。明るくなると、電灯に代えて旗の数で位置を知らせたそうです。
 トッピー当番表は風雨に耐え、文字はかすれながら今も複数遺っています。漁業の実態を示す貴重な史料であり、人々が島に生きた証しです。

トーチカの壁に遺るトッピー漁の見張り当番表