53 鉄砲国産、南島の誇り

 西町の八坂神社境内に「慈遠寺」の手水鉢があります。明治の廃仏毀釈で壊された寺の遺物です。慈遠寺の宿坊には天文12(1543)年の鉄砲伝来の際、明国人、琉球人、南蛮人( ポルトガル人)ら百余人が半年近く過ごしました。キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルの日本伝道最後の滞在地とも伝えられます。
 鉄砲伝来を物語るには、三つの名場面があります。
 第1幕は、種子島最南端の門倉岬に近い前之浜(南種子町)への明国船漂着。南蛮人を見た西村織部丞が倭寇の五峰と筆談した、西洋と日本の初遭遇の場です。
 第2幕は、赤尾木港に回航した船の修理滞在中、第14代島主種子島時尭が火縄銃2丁を入手する場景。
 第3幕は漂着の翌年、ポルトガルの鍛冶職人が熊野浦(中種子町)に来航し、銃身のネジの技術を伝えます。火縄銃国産化に尽くした八板金兵衛の娘・若狭や、火薬製造の笹川小四郎がからむヤマ場です。
 種子島3市町の見せ場を結び、鉄砲伝来は完結します。
 鉄砲術で名をはせた第16代島主久時は、夭折した第15代時次の弟で、豊臣秀吉に鉄砲を献じ、島津義弘に属して朝鮮に度々渡ります。領地が変わって知覧に移った後も戦功を重ね、数年後に旧領種子島に復します。
 さらに慶長11(1606)年、根来や堺などへの国内普及を論じる「鉄砲記」を禅僧南浦文之に記させて、時尭の功績を称えた5年後、43歳で没しました。
 世界史に南島の力量を印した誇りは、織部丞の子孫、西村天囚(時彦)により明治32(1899)年、「南島偉功伝」に書き継がれます。
 そして、コロナ禍の続く2021年、種子島鉄砲まつりは延期の上、花火大会を分散化するなど、2年連続の縮小開催となっています。これもまた、わが島の歴史の一コマです。

「慈遠寺」の文字を刻む手水鉢