51 父の顔知らぬ島主

 日本初の「ヨガの聖地」認定から6月で一周年を迎えました。聖地の一つ、サンセットラインに「深川の大石」があります。巨石の中央に「南無妙法蓮華経」、両わきに「慶安壬辰春時正月」「沙門日逵拝」と刻まれ、慶安5(1652)年、僧日逵による供養以外の詳しい由来はわかりません。
 言い伝えでは、心中、集団殺害、流刑後の自害など諸説あるほか、種子島家譜に、関連を推測させる記述が目を引きます。正保3(1646)年夏、若手の家臣18人が切腹などの罰を受けているのです。
 正保、慶安年間は江戸前期。島主は17代忠時(1612〜54)の時代です。関ヶ原の戦から半世紀がすぎ、徳川三百年の太平の世へと進む一方、種子島は、高い身分の隠れキリシタンや、お家騒動などの流刑者を引き受け、政治の陰の役割を果たしていきます。
 忠時は父の顔を知りません。父の死は母の胎内にいるときで、生まれると同時に島主となりました。鹿児島の初代藩主島津家久のもと、乳のみ児の間に藩の支配が強まります。
 ここで、榕城小学校の校歌を思い出します。
 〽仁の時尭 智の栖林 勇の久時 次々に
  残す文武のいさおしの 香はゆかし我が母校
 鉄砲伝来の14代時尭は忠時の祖父。古田御前に育てられた父16代久時は、文禄慶長の役などに鉄砲術で武名を高めました。子の18代久時は藩の家老を長く務め、国老を引き継いだ孫の19代久基(栖林)は琉球から得た甘藷の栽培を普及させた功績が光ります。
 忠時は、校歌に歌われてはいません。しかし、日本最南端の武家社会、故郷の命脈を保った島主です。
 海岸の大石に法華題目が刻まれてから369年。潮風に、ヨガの息を静かに吐きます。島の平安を願い、文武の歴史をつむいだ先人の勲がしのばれます。

天下泰平を願う「深川の大石」