42 東町の榕樹と伝平碑

 東町公民館の西に立つガジュマルは一昨年の台風24 号で倒れ、丸裸に近い剪定を経て再生中です。「樹齢百五十年」の標柱が示していた150年前は、どんな時代だったでしょうか。仮に標柱設置が2000年とすれば、1850年、幕末の嘉永年間にあたります。
 種子島家譜を開くと、嘉永6(1853)年11月、東町の吉留伝平と現和庄司浦の弥五郎を「孝子」として、石碑を両町に建てたとの記述があります。
 伝平は、高齢の母への孝行が広く知られ島主や藩主から表彰されたのです。琉球交易に従事した商人で、長期間家を留守にするとき、90歳を超える母の身を案じました。下西の日典寺に「帰島まで母が達者でいますように」と願をかけ、もし願いがかなったら、「甲女川に橋をかけ、赤尾木の町の人々が参拝しやすいように致します」と誓いました。半年後に帰島すると、元気な母に再会できたので、感謝の思いで甲女川に橋を架け、願ほどきをしたそうです。
 その後、老母は95歳で亡くなります。伝平の子の家の門外に建立された石碑は大正14(1925)年の大火後、西町の榕樹(ガジュマル)の下にあった弥五郎碑とともに、村役場(慈遠寺跡)に移転。さらに昭和32(1957)年には町役場正門左(現市役所の市民会館側)に移され、現在に至っています。
 甲女川といえば、河口域が埋め立てられる前、昭和30年代頃は、干潮時に近道をして天神橋を渡らず、天神町から川辺に降り、砂浜伝いに砂丘を越え、鴨女町や川迎方面に行き来した記憶があります。
 再生するガジュマルや、刻字の薄れる伝平碑を見るとき、百年間の過去を顧み、百年先の将来を慮ることを怠るなと、植物や先人に叱咤される気がします。

再生する東町のガジュマル