40 歌子没後160年

 旧榕城中学校跡地に立つ種子島時尭像の近くに山田歌子(1810~60)の歌碑があります。昭和13(1938)年に榕城校区婦人会が御拝塔墓地に建てていたのを6年後の戦時中、女学校の敷地(現在地)に移したそうです。
 歌子は京都に生まれ、香川景樹(号は桂園)に和歌を共に学んでいた縁で、薩摩藩の京都留守居役、山田市郎左衛門清安と知り合い、結ばれました。先妻を失っていた清安は歌子を伴って鹿児島に帰りますが、嘉永2(1849)年、藩主島津斉興の跡目相続争い(お由羅騒動)の張本人として切腹を命ぜられました。妻の歌子も連座して翌年5月、種子島に配流されたのです。
 種子島家の女殿様、松寿院(第23代久道夫人)は歌子を篤くもてなしました。住まいの近所には同年輩の歌人平山優子がいて、親交を深めたといわれます。
 歌子の作風は「自然な感情を調べとして、平易な言葉で詠む」桂園派の流れでした。島の歌風は次第に、歌子の新しい風と融合していきました。歌碑の3首は、それぞれ望郷、南島、亡夫への思いがこもります。
 古里の淀野におふるあやめ草けふは心にひきうつしけり
 夢にだにまだしらざりし荒磯の波を枕のもとにきくかな
 大内の山の白雪あとつけて君とともにも遊びしものを
 歌子は万延元年8月16日没、50歳。墓は雲之城墓地にあり、傍らの看板にも一首記されています。
 吹く風も磯打つ波も心せよまだ里なれぬ旅の枕木
 歌子が種子島で初めて泊まった家は今の東町あたり。海風や波の音を聞きながら、詠んだのでしょう。今年、島で一生を閉じてからちょうど160年になります。

山田歌子の遺詠を記す石碑