34 平草漁の良き時代

 庄司浦は藩政時代、種子島十八ヶ浦の一つに数えられ、浦人は、大阪、琉球方面に運航する船の船員として旅立つ習慣が明治中期まで続きました。その庄司浦漁港に「平草漁創始者顕彰碑」が立っています。
 平草はテングサの仲間の海藻で、寒天の原料です。碑文によると、明治40(1907)年に来島した宮崎県の鉱山業者が、紀州から宮崎に続く平草の自生帯について、暖流の関係から種子島沖まで延びていると推定し、島の東沖約20キロ付近での発見につながりました。漁具、採取方法を改良するなどして平草漁に貢献した人々に感謝し、顕彰するため、昭和41(1966)年に碑を建立したことが記されています。
 明治百年を機に発行された「現和郷土誌」によると、平草漁の従事者は東海岸の隣港である浅川、田之脇はもとより、浦田湊、大隅海峡をはさんだ佐多方面からも加わりました。大正期には、大阪の寒天業者がテングサやナガラメを「磯付き」のまま買い入れました。
 種子島ではオオブト、マブトと呼ばれるブト漁が盛んとなり、庄司浦には西海岸の漁業集落からも大勢集まり、そのまま住みつく例もあったそうです。平草景気は昭和期の戦後もしばらく続き、漁業権は合併前の東海漁業協同組合に引き継がれましたが、次第に水揚量が減り、下火になったようです。
 碑文に記された鉱山業者二宮兵吉氏の孫で庄司浦小組合の長老格である二宮大陸さん(84)は「祖父は平草でずいぶんもうけたそうです。平草がとれなくなって、ナガラメも小さくなった。原因は、潮の流れか何かわからん」と豊漁の昔を懐かしみます。
 近年の漁業不振の要因に地球温暖化がいわれる中、「藻場復活が漁業再生のカギ」と、改めて思います。

平草漁創始者顕彰碑=庄司浦漁港

平草漁創始者顕彰碑=庄司浦漁港