22 黒松と蘇る記憶(2019年2月号)

 一枚のモノクロ写真があります。太い黒松が林立し、砂丘の土手の向こうに西之表港の街並みが見えます。説明シールには「種子島神社 昭和27(1952)年 日ポ修好記念之碑」とあります。市制施行の6年前、すなわち今から67年前の若狭公園の風景で、写真中央の右寄りに小さく、記念碑が立っています。
 撮影者の河内仁さん(85)は横浜市在住で、昭和19年、東京から父祖の地の西之表に疎開して当時の榕城国民学校5年生に編入し、翌年3月には旧大口町(現伊佐市)に学童疎開。戦後は旧制種子島中学校を経て、種子島高校を卒業するとともに島を離れました。少年の日の記憶を「種子島 四季」と題した冊子にまとめ、写真とともに送って下さったのです。
 旧制中学のエピソードでは、空襲で校舎が焼失したため、「各部落の会宅(公民館)」が代用教室となり、先生が回ってきて授業をした話がつづられています。目次や文中の語句を拾うだけで、昔懐かしい情景が浮かび、種子島への愛着が感じられます。
 やま学校、ぬれ嫁女、杉山の天狗、カッパ、バナナ林、黒砂糖 サトウすめ小屋、イカの大群、ヤクタネゴヨウの丸木舟、城之浜の遺骨、空襲、示現流、ヤマイモ掘り、ウナギとり、海亀、精米所の木炭エンジン、化粧石鹸の行商、ヤンカイ(女郎蜘蛛)……。
 黒松といえば、私の母校、旧榕城中学校の校歌の冒頭にも歌いこまれています。
  〽黒松の 梢さやかに 風わたる 赤尾木の丘
  澄み通る 鐘の響きも 永久の 希望うたいて
  光満つ 榕城中学校 我らは睦ぶ ここに楽しく
 白砂青松という言葉は城之浜のためにある。私は今でも、そう思っています。