12 天毛政吉と六眼銃(2018年4月号)

 幕末の種子島にアメリカ船で到来した天毛政吉(てんもうまさきち)(1831~92)の物語を徳島市の郷土史研究家、木嶋隆夫さん(80)が西之表市民フェアで紹介しました。
 政吉は安政6(1859)年6月、米海軍測量船クーパー号に乗って住吉村能野の海岸に上陸しました。元は淡路島の漁師で、安政3年、和歌山からミカンを積む船で伊勢に向かう途中、しけで5カ月間漂流します。捕鯨船に助けられたとき、仲間2人は餓死していました。捕鯨船で働き、帰国を熱望する政吉は安政5年秋、ハワイでク号に乗り移ります。
 ク号は香港、琉球を経て種子島に到着。政吉は通訳を務めました。島は「女殿様」松寿院の時代です。3日間の滞在中、乗員9人が能野、さらに赤尾木港(現西之表港)でも測量します。異人らは岸岐に上がり、慈遠寺(現八坂神社)で休憩し、お礼に甘美な味の飲み物(ワインか)を差し出し、お返しは焼酎でした。島人の茶のもてなしに対する返礼には怪獣(ヤギか)を、最後は連発の「六眼銃」を贈って去ります。種子島家はこの六眼銃を量産し、島津久光が江戸上りのときに携行したそうです。
 政吉は徳島藩の武士に登用され軍艦の船長に出世します。木嶋さんは、ク号船長の航海日記や「種子島家譜」を探究し、種子島家の子孫で松寿院研究者の村川元子さんとも出会って、今回の講演が実現しました。
 能野の海岸を訪れた木嶋さんは「政吉上陸の地を自分の足で踏みしめることができて感無量。政吉と島人との交流の物語を四国や関西の若者にも知ってほしい」と語りました。種子島でもほとんど知られていない史実の伝承に、私も努めます。

講演のスライドで紹介された天毛政吉

講演のスライドで紹介された天毛政吉