赤尾木城と種子島の武家文化
種子島氏の居城は島主の時代によって、転々と異動している。赤尾木城が、登場するのは、17代忠時からである。
寛永元年(1624)忠時12歳の時、内城(今の榕城中)から、上の城(今の榕城小)へ移りましたが、ここは、亜熱帯特有の赤尾木が繁茂していたので、赤尾木城と呼ばれ、これより明治2年(1869)25代久尚(版籍奉還)まで約250年間、種子島の政治・文化の中心となった。しかし、島津氏の鶴丸城と同じく、天守閣の無い屋形づくりの平屋で「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」の精神によって造られた。この城は山鹿流によるといわれている。種子島の統治機構は薩摩の外城制度に準じたもので、居城を麓士が直接守り、農村部には郷士を配置し、つねに大名を外側から守るという体制を作っていた。赤尾木が麓で、この麓士は約300人、残る700人程度が郷士として各村に散在していた。 種子島は薩摩藩の一外城で種子島も一つの郷であり、その郷の中に18カ村が置かれていた。
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