羽生慎翁といけばな

■種子島での華道の起こり

 大隅半島の南方に位置する種子島は、江戸時代には薩摩藩島津氏の支配下にありましたが、鎌倉時代からの島主である種子島氏が赤尾木城に居を構えていました。その家老が羽生氏で、中でも羽生道潔(1768~1845)は、御家年中行事の編纂や、種子島に初めて養蚕業を奨励したことで知られ、文武両道を極めた人物でした。寛政4年(1792)、道潔が鹿児島の丸田氏を師としていけばなを始めたことが種子島での華道の起こりと伝えられています。

 

■羽生慎翁の活躍

 文政9年(1826)西之表に生まれた慎翁は、祖父道潔と同様、丸田氏からいけばなを学んでいましたが、明治維新による社会の大変革に合わせるかのように、明治2年(1869)、京都に赴いて本格的に池坊のいけばなを学び、帰郷後多くの門人を獲得しました。

 明治8年(1875)、再び京都にやって来た慎翁は、42世池坊専正のもとで稽古を重ねます。専正の日記『日々記』(池坊総務所蔵)によれば、巻物・伝書を授けられた慎翁は、「一々披見不審之箇所尋問有」、すなわち、授けられたばかりのものをすぐに開いて、分からない所を専正に質問したといいますから、かなりの情熱家です。そして、その情熱と技量が専正に認められ、明治12年(1879)に薩摩大隅両国会頭職、同15年(1882)には大日本総会頭職に任じられました。

 その後、慎翁は東京に移住し、華道家元華務課東京出張所の開設を門弟8名の連名で願い出、明治22年(1889)に認可を受けました。慎翁は、京都に代わって首都になった東京における池坊いけばな普及の重要性を見抜いていたのでしょう。東京出張所の初代所長に就任した慎翁は、京都と東京の間を何度も行き来して普及に尽力、明治34年(1901)に死去しました(享年75歳)。翌年、その功績をたたえ東京の門弟たちが泉岳寺に顕彰碑を建てています。

 

■いけばな人口の拡大

 慎翁は、種子島をはじめ、鹿児島県の人物の入門を多く取り次ぎました。池坊専正とその門弟の図集『生花後編 百花式』には、鹿児島県の人物のいけばなが40図も収録されています。鹿児島県は、明治10年(1877)、西南戦争で大きな被害を受けました。いけばなは、戦災からの復興にも役立ったのではないでしょうか。

 『明治新撰 立生千華式』には、日本全国の池坊門弟の作品が収められています。この中に羽生慎翁の作品が多数見られることから、慎翁のいけばなの力量の高さ、非凡な才能を見いだすことができます。

 慎翁の存在は、種子島及び鹿児島県でのいけばな人口の拡大に大きく貢献しました。

 慎翁の邸宅(現在の月窓亭)周辺には、慎翁が植えたといわれるハラン(花材)を見ることができ、いけばなが盛んであった当時の様相を今に伝えています。

 

(引用文献「華道 Kado Ikenobo」 第77巻第10号 2015年10月号 発行所 株式会社日本華道社)

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