羽生家と生花

 種子島の花道は、羽生慎翁の祖父道潔が寛政4年(1792)鹿児島の花道池之坊流師範家丸田氏に入門し、種子島の花道指南家となったことに始まると考えられる。
 その孫羽生慎翁(1826年~1901年)は、幼少より祖父道潔について、読書・手習いを修業し、弓術、槍術、示現流剣術、故実礼法、池之坊花道など文武両道を極めた。

羽生慎翁

【羽生慎翁の足跡】

  • 明治8年(1875)、家元42世専正師より生華伝法皆伝立花数ケ條の伝授を受け、号を梅陰亭月窓と称す。その後、大日本華道家元京都六角堂池坊の門弟となる。
  • 明治12年(1879)、薩摩・大隈両国会頭職就任。
  • 明治15年(1882)、 大日本総会頭職(宗匠代理、東京出張所長)就任。
    その後、久邇宮の花道御用、また島津公爵家や大徳寺の花道教授となり、池之坊正派を全国に広めた。これらの功績を讃え、東京高輪泉岳寺境内に公徳碑が建てられた。

 種子島でも、江戸時代以降、池之坊花道が盛んになり、屋敷周辺にはハラン(花材)が植えられ、婦人たちが修業した。これもひとえに羽生慎翁の影響が大きい。

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