建物ゆかりの人びと

1.武家屋敷として

 「明治19年6月27日守時君幼沖にして依るところ無きを以てす。是に至りて譲蔵等、島人らと協議し、守時君をして、しばらく旧臣に依らしめ、その成立を待って以て家運を挽回せんと欲す・・・(以下省略)」(種子島家譜6巻)
  版籍奉還という新しい時代の流れ中で、旧臣前田譲蔵を中心とする種子島家加勢集団は、幼少の27代守時君(8歳)を種子島へ迎えるために奔走する。
 この頃、羽生慎翁は池之坊大日本総会頭職(東京在住中)として活躍中で、赤尾木城を眼前にする羽生慎翁旧宅に決定し、明治19年10月31日この屋敷に奉迎することとなった。
 以来、種子島の人々は、この屋敷を「お屋敷」と呼ぶようになったが、幾星霜移りても、島人の心の中に、「お屋敷」は、島の誇りとして心の拠り所となってきた。

2.文化の館として

 この屋敷は、羽生家の住宅であったが、明治19年種子島家が鹿児島から移り住んだことにより、島の人々は、「お屋敷」と呼ぶようになった。
 種子島家が移り住んだことにより、700有余年の種子島の歴史を綴る種子島家譜類やポルトガル伝来銃、国産第一号銃、生き人形「山野井様」などの宝物が多数保存されてきたことから、数多くの著名人らがこの屋敷を訪れた。 
 それは枚挙に暇がないほどであるが、代表的な人々を挙げる。

  1. 昭和27年10月28日 下村海南、木村 毅、吉阪俊蔵(屋久島国立公園審委員)
  2. 昭和38年10月12日 ピント・ダス・サントス駐日ポルトガル代理大使
  3. 昭和43年10月1日 アルマンド・マルチンス駐日ポルトガル大使閣下ご夫妻
  4. 昭和45年5月16日 常陸宮殿下・妃殿下
  5. 昭和45年5月     奈良本辰也(歴史学者) 高野悦子(作家)
  6. 昭和50年(1975年)9月28日 司馬遼太郎夫妻ら

 「街道をゆく」取材旅行のため、訪れた司馬遼太郎氏一行をこの種子島家御屋敷で歓迎の夕べが開かれた。司馬氏ご夫妻は島特産の焼酎を快飲し、歌い踊り、夜遅くまで懇談された。司馬夫妻の他、沈 寿官夫妻、須田画伯、橋本申一氏(朝日新聞記者)、同週間朝日記者、野村宏治氏(読売新聞記者)であった。この旅行記は朝日新聞社刊「街道をゆく」と題して、刊行されている。

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